牛丼キライ!

週刊クロカワ

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40 牛丼怖い 2002/12/26 03:03

牛丼が怖い。11月に心斎橋の松屋で劇的にマズイ牛丼を食って以来、全くと言って良いほど牛丼屋に行っていない。牛丼屋に行ったらまたヒドイのを出されるのでは、という恐怖心で毎日僕は押し潰されそうになっている。しかし「全く行っていない」と書かなかったのは、実はあれから一度だけすき家に行ったからだ。最後に食べた松屋の牛丼が頭にこびり付いて離れない日々にピリオドを打つため、勇気を振り絞ってすき家に足を踏み入れたのである。

まあまあ美味しかった。

そう、実はすき家では牛丼をまあまあ美味しく食べることが出来た。しかしそこにはかつて牛丼に感じたような愛がなかった。胸のトキメキを感じることが出来なかった。牛丼を食いながらその行為に「牛丼を食っている」という以上の意味性を全く見出せなかったのだ。それまでは違った。僕は牛丼を食いながら、日本全国の全ての牛丼屋で同じ瞬間に牛丼を食っている見知らぬ人々に確かな愛情や慈しみにも似た感情を抱くことが出来たし、290円という値段に溢れんばかりの感謝の気持ちを感じることが出来た。そこには確かに「牛丼を食う」という行為以上の意味があったし、僕はそれを感じられることをとても幸せなことだと思っていた。

すき家の牛丼を食いながら僕は、僕と牛丼の蜜月期間が遂に終りを迎えたことを知った。すき家の牛丼が塩辛かったのは決して店が味付けを間違えたからではない。しかし、あの日僕らが信じたもの、それは幻じゃない。

SO YOUNG。




39 素晴らしきブサイク兄弟 2002/12/24 02:43

キリンジの新しいアルバム『OMNIBUS』が素晴らしかったので、ちょっと情報でも、とキリンジのサイトを色々見てたら、その中の一つの管理人の自己紹介のページがこんなことになっていました。

―以下無断転載―


音楽好き。ライブ好き。

キリンジ、フィッシュマンズ、Steely Dan、青山陽一、高橋徹也、セロファン、chains、Plectrum、福岡英朗、宮崎貴士、ゲントウキ、Grapevine、XTC、Pizzicato Five、カーネーション、はっぴいえんど、The Chang、矢野顕子、ダリエ(濱田理恵)、細野晴臣、大滝詠一、鈴木茂、山下達郎、Roger Nichols、Paul Williams、Brian Willson、Todd Rundgren、Burt Bacharach、西村哲也、Grandfathers、Nick Decaro、Kenny Rankin、大貫妙子、鈴木さえ子、Paul McCartney、キセル、SOL SWEET、Super Butter Dog、Little Creatures、クラムボン、HARCO、BROWN' NOSE、COZ、Milton Nascimento、Stevie Wonder、The Bee Gees、Tin Pan、坂本龍一、Y.M.O.、Scritti Politti、Buggles、Buffalo Springfield、Phil Spector、Carpenters、Carol King、Marvin Gaye、Joni Mitchell、Laura Nyro、The Fifth Avenue Band、トエリス、JUNKY FUNK、SPANOVA、冨田勲、南佳孝、TAHITI 80、Babyface、Cartis Mayfield、松尾清憲、空気公団、トモフスキー、Elis Regina、竹内まりや、Ben Folds Five、Flipper's Guitar、Harper's Bizarre、The Beach Boys、Jellyfish、Sloan、They Might Be Giants、Style Council、小沢健二、Cornelious、ムーンライダーズ、加藤和彦、YES、EL&P、King Crimson、Soft Machine、Kraft Werk、渡辺香津美、Antonio Carlos Jobim、Astrud Gilberto、Everything But The Girl、Fairground Attraction、David Bowie、808 STATE、New Order、The Beatles、Bjork、Primal Scream、Cocteau Twins、Prefab Sprout、High Llamas、Michel Legrand、The Rascals、Zombies、The Doobie Brothers、Lee Perry、パール兄弟、PINK、Shi-shonen、REAL FISH、くじら、hi-posi、Cioccolata、The Collectors、Oh!Penelope、高野寛、あがた森魚、GONTITI、JOKE VOX、かせきさいだぁ≡、benzo、イノトモ、UA、ルミナスオレンジ 、Young Brian's Group、スネオヘアー、プラモ・ミリオンセラーズ、インスタント・シトロン、Stereo Lab、Jeff Buckly、千葉レーダ、ヤング100V、R.P.O、Cheap Trick、Queen、10CC、Tot Taylor、Led Zeppelin、E.L.O.、高浪敬太郎、BOX、ナンバーガール、Coaltar of the Deepers、Bonzo Dog Band、The Rutles、Jamiroquai、COIL、Cymbals、立花ハジメ、スガ シカオ、The Knack、BROWN' NOSE、コーヒーカラー、ズボンズ、ノーナ・リーブス、Advantage Lucy、ヨシンバ、奥田民生、阿部義晴、タモリ、PSY・S、こども、Paul Simon、McAlmont & Butler、Hall & Oates、Tuck & Patti、Buffalo Daughter、The LONG VACATION、ORIGINAL LOVE、フィンガー5、St.Etienne、Supremes、aiko、Manna(男女ユニットの方)、キマタツトム、Cotu Cotu、びっくりしたなもう、Hash Bon Bon、Slap Sticks、クリンゴン、ザ・サニーズ、etc...

―転載終り―

何てこった。



38 ソーリー、ビッグブラック摩季。 2002/12/23 03:45

これだけは許せない、ということが誰しも一つや二つあると思う。

もちろん僕もある。「これだけは」と言いつつも結構幾つもある。その中の一つは「人の名前を間違えて書く」ということだ。それは検閲のないインターネット上の文章やそのBBSに顕著であるように思う。今パッと思い付いたのは「奥田民夫」。正式には奥田「民生」なのだが、結構いろんなところで民夫と書く人がいて、僕は特に奥田民生が大好きというわけでもないのに、それを見る度に「チクソー間違うなよドアホウ」とささやかな怒りを覚える。

…というわけでヤッテシマイマシタ!

前回の大黒麻季、正確には大黒摩季でしたねー。「これだけは許せない」ということを自分でやってしまったからには、「まあ許す、ていうかそんなこと全然気にならない」陣営に転向せざるを得ないだろう。

漢字の間違いにいちいち目くじら立てるなんて、ほんとケツの穴が小さいですよね!



37 白痴化BOX 2002/12/20 02:39

毎年この時期になると、各テレビ雑誌がやたらと分厚い年末年始特大号を出す。パラパラめくってみると、クリスマスから正月三が日くらいにかけて、テレビ界はさながら狂乱の宴の様相を呈している。歌うわ芸をするわ飲むわ食うわ演じるわ遊ぶわ脱ぐわで、まさにテレビの役割面目躍如といったところである。これらテレビ雑誌を熱心に読んでいると、年末年始のテレビは本当に見所が多くて困ってしまう。

しかしそのどれもが実は全く面白くないということに、誰しもが気付いている。

前にも書いたかもしれないが、僕は最近全くと言って良いほどテレビを見ない。これは一時期狂ったようにテレビを見まくっていたことの反動である。2年くらい前だったと思うが、僕はその頃、連続ドラマからバラエティから歌番組からワイドショーから、それはもういろんなテレビ番組を文字通り朝から晩までずっとウォッチングし続けていた。年末年始なんてもうお菓子買い込んでコタツでテレビ漬けだ。「ダメ人間になるゾー」と僕は僕なりに曲がりなりにも意気込んでいたものだった。その年の12月31日大晦日、僕はテレビを見ながらいよいよ年を越えようとしていた。テレビでは大黒麻季が奈良の大仏の前で野外ライブを行っているところだ。午前0時が近付き、大黒麻季がカウントダウンを始めた。

「3…2…1…、オメデトー!!!!!!」

その瞬間僕の中で何かが吹っ切れた。

「…俺は大黒麻季と年を越してしまった!」

何か非常に取り返しのつかないことをしてしまった、という焦燥感がふつふつと胸の中に湧き上がって来た。思えば朝から晩までジャンキーのようにテレビに依存して生活していたが、スイッチを消した瞬間に全て忘れてしまうようなくだらない番組ばかりだった。何をしていたんだ俺は。大黒麻季とカウントダウンなんかして何をしているんだ俺は!

それを期に僕はテレビはほどほどしか見ないようになり、やがて殆ど見なくなった。その意味では僕は大黒麻季に少なからず感謝している



36 会話ゲーム 2002/12/19 05:37

何度か海外に出掛けたことがある。深夜特急に憧れて。

外国では大体カタコトの英語を話す。偉いもんで適当に単語を並べていれば大まかな意味は通じる。挨拶は「ヘーイ」だ。お礼は「センキュー」、ちょっと驚いたりする時は「ワーオ」、返事は「ヤー」などなど。実際に口に出して言ってみると分かると思うが、こんなことばかり言っているとどんどん投げやりな気分になって来る。適当でいいや、そう思えて来る。気持ちも無根拠に大きくなって来る。何日かその土地で過ごすうちに、道行く外国人(向こうから見ればこっちが外国人)にも「ヘーイ」とか適当に声をかけてしまうようになる。日本ではまずあり得ない。道行く人に「こんちゃーす」とか言ってみようものなら、返事の代わりに怪訝な顔を返されるのがオチだ。

先月エジプトに行ったことは既に書いた通りだが、エジプトでも僕は道行く人に「ヘーイ」と適当に挨拶をしまくり、バスの運転手やら宿のスタッフ、レストランのおじさんやら露店のお兄さん、とにかくあらゆる人に超気軽に声をかけまくっていた。カタコトの英語で話す会話なんて所詮ゲームだ。会話ごっこだ。向こうにしても普段は英語なんて話しちゃいないわけで、お互い「英語」という共通の暗号を使って手探りで会話をしているという錯覚にどうしても陥ってしまう。僕は英語という言語が、自分の中で血肉となっていないことを感じる。だから英語で話す時は、話す言葉に自分という人間の魂が全くと言って良いほど宿っていないのが分かる。自分が話していながら、その言葉は自分のものではないという感覚は時に心地良い。世界と自分が無関係であるかのように感じられる。日本語の中だけで暮らしていてはなかなか味わうことの出来ない感覚だ。

エジプトから日本に帰って来た時、関空に降り立った飛行機の窓から大きな月が見えた。その月は大きいだけでなく異様に赤く、妖しく地平に浮かんでいた。僕は「うわっスゲー月!」と興奮して隣に座っていた日本人に「見て下さい。月スゴイっすよ」と言おうとした。しかしエジプトでの気楽な英会話と打って変わって、僕は見知らぬ日本人に気軽に話しかけることが出来なかった。

その時、「あー日本に帰って来たんだなー」と実感した。



35 それは牛乳じゃない 2002/12/18 03:22

ヤラレタ!という感じだ。前回の文章で「パソコン」という言葉に自動的にリンクが貼られてしまった。ちょっと前にこのサイトのBBSでそんな話が出ていたが、まさか自分が巻き込まれるとは思わなかった。油断一秒怪我一生、行けばわかるさ人間だもの。うーん何のことやら。一見するとまるで「パソコンのことを知りたいならこのリンク先に飛んでみてYO」と僕が親切心でやったように思えるが、実際そこには僕の全く与り知れない未知の力が及ぼされているのである。僕を打ちのめしたのは圧倒的な敗北感と無力感だ。どれだけ飛んでも結局釈迦の手の中から出ることすら出来なかった孫悟空の気持ちというのはこんな感じか。


ウチのコンビニではその名も「おいしい牛乳」という牛乳が商品として売られている。なんちゅうネーミングだ、と常々気になっていたのだが、何とこれが最近シリーズ化されて、「わりとおいしい牛乳」「おいしくない牛乳」「ふつうの牛乳」という3商品が仲間入りした。興味深いのが売れ行きである。4つある中、ダントツで「おいしくない牛乳」が売れているのだ。どうせ金を出して買うなら美味しくないものよりは美味しいものを、というのが正常な考え方であると僕はこれまで考えてきたし、その考えをこれからも変える気はないが、それならばこの「おいしくない牛乳」が売れているという状況を一体どう考えれば良いのだろうか。

そのことを考えるためには、そもそもこの「おいしくない牛乳」は本当に美味しくないのかということを確かめなければなるまい。クソコンビニにカネを落とすのは考えるだけでも癪な話だが、そこは真理の追究のためだ。僕は涙を飲んで「おいしくない牛乳」を買い込み家に帰った。

そして今、目の前に問題の「おいしくない牛乳」がなみなみと注がれたグラスがある。見た目は普通の牛乳と変わらない。匂いにもおかしなところは認められないようだ。

一口飲んでみる。

これは…薄い。水のようだ。なるほどコクが命と言われている牛乳にあってこの薄さは致命的だ。「おいしくない牛乳」と名付けられる理由も分かるというもの。何故こんなものが商品として流通し、なおかつ売れているのだろうか。理解不能である。あるいはこれは「牛乳」として飲用するモノではないのかもしれない。そういえばこの前立ち読みした女性ファッション誌に「薄めた牛乳で髪を洗うとサラサラになる」というようなことが書いてあった。なるほどこの牛乳は洗髪に使うのが正しい利用法であったか。

そこで僕は残りの「おいしくない牛乳」で髪を洗ってみることにした。

…洗って来ました。…こ、これは素晴らしい。実は僕は友人たちの間で「枝毛生え太郎」と呼ばれるほどバッサバサの髪をしており、それが故に自分の殻に閉じこもりがちなところの多い非常に内向的な人間なのである。「俺の髪がもうちょっとサラサラだったら、人とも上手く話せるようになるのになあ」と夢見て幾星霜。ついにこの時が来た。「おいしくない牛乳」で洗った僕の髪は見違えるほどサラサラになってしまったのだ。あれほど痛んでいた髪が蛍光灯を反射して眩しいほどに輝いているのが分かる。

僕は明日また「おいしくない牛乳」を買うだろう。買われた方は「何でこんなもんが売れるんだ」と訝しがるだろう。「ヒントだ」と僕はそいつに言うだろう。「それは牛乳じゃない」


※今回、色々正しくないことが書かれている可能性があります。




34 見せます舞台裏 2002/12/17 03:03

この連載タイトルに冠せられた「週刊」が有名無実化して久しい。むしろ始めから週刊サイクルが守られたことはただの一度もなかったような気がする。「週刊」―言うまでもなくそれは週に一度という刊行ペースを指して言う。僕がここで書き始めたのがどうやら9月の頭のことであるらしく、今は12月半ばであり、連載は今回で30何回目かであるはずだ。3ヶ月半で30回ちょいということは単純計算で1ヶ月に10回といったところか。3日に1回。奇しくもこれが僕の洗濯サイクルと見事に一致するのはもちろん偶然ではない。洗濯しながら下書きをし、一度それを保存。気分転換も兼ねて洗い上がった洗濯物をベランダに干し、一段落したところで趣味の良いレコードを聴きながら珈琲を1杯。そしてまたパソコンの前に座り、さっき書いた文章をざっと読み返し、推敲に推敲を重ねてようやくウェブ上にアップする、というのが僕がコラムを書く際の大まかな流れとなっているのである。


何故そんな嘘を書くのか、我ながら理解に苦しむところだ。



33 ある画家の話 2002/12/14 22:52

かつて僕の中学校の美術の先生が授業中に話したことで、最近何故か急に思い出して、それ以来もう四六時中頭から離れなくなってしまった話がある。

それはこんな話だ。

ある有名な画家(有名になる前だったかもしれない)とその友人(以下A)が一緒に歩いていた。二人はもうこれを期にしばらく会えなくなるという状況で、画家はAを見送るため(あるいは逆に、Aが画家を見送るためだったかもしれない)に一緒に歩いているのであった。歩きながらAは一つ気になることがあった。それは、先程から画家がポケットの中に入れた片方の手をもぞもぞと動かし続けている、ということである。「もうすぐお別れだというのに失礼なヤツだな」Aは思った。そして別れ際、画家はAに一枚の紙片を手渡した。何とそこにはAの横顔が描かれていた。そう、画家はポケットの中に紙と鉛筆を忍ばせ、二人が一緒に歩いている間、Aの顔をスケッチしていたのである。紙を一切見ることなく…!

話のディテールはうろ覚えなので自信が無いが、画家が自分のポケットの中に持った紙に、一緒に歩いている人の顔を描いた(それも見事に)というところは間違いない。先生の言いたかったことは「熟練した絵描きはこんなことも出来るのである」ということだったと思う。だからお前らも頑張れよ、と。当時僕はその話を聞いてどう思ったのだろう。恐ろしいことだが、もしかすると痛く感動したのではなかったか。しかし今になって思う。

…何だその話。

さっきも書いたが、ここんところ僕はもうこの画家のエピソードが頭から離れなくなって困っている。始終このシチュエーションについて考えていると言って良い。彼は何故わざわざポケットの中でスケッチをしようと思い立ったのか。ふと気付いたら都合良くポケットに紙と鉛筆が入っていたのかもしれない。それで「ふふ。やっちゃろかい」と悪戯心に火がついたのかもしれない。僕は個人的に、出来ればそうであって欲しいと切に願う者である。何故ならそうでないならば考えられるもう一つの可能性は、必然的にこういうことになってしまうからだ。

「前もって小さな紙と短い鉛筆を用意し、ポケットに隠し持っていた」。

僕は彼が誇らしげな顔をしてAに絵を渡す華々しい場面よりも、その下準備をする彼の方に思いを馳せてしまう。紙を小さく破いたり、ポケットの中で自在に動かすことが可能な長さに鉛筆を折ったり。そんな彼はもちろんそれだけに飽き足らず、予行練習にも余念がなかったに違いない。そして「このポケットはちょっと絵を描くにはピッタリし過ぎていてキツイな」とズボンを仕立て直したかもしれない。その結果、彼の右(あるいは左)ポケットはよく見ると違う生地で成っており、ものすごくダボダボしていたことだろう。


紙を見ないで絵を描く能力よりも、僕はそんな彼の間抜けさに尽きない興味がある。


書いてちょっとすっきりしました。





32 コンビニ店員は何を考えているのか 2002/12/12 04:18

コンビニを長いことやってると、当然ダレる。もうダレるとか言う以前に神経が麻痺して来る。ふと気付くとレジに立っている。前回レジに立ってから、今こうしてレジに立つまでの間にあったはずの時間がすっかり消し飛んでしまっているという錯覚に囚われる。俺はコンビニのレジにしか存在しないのか。ある程度、それは正解だ。常連の客は、まさかこのレジに立っている人畜無害のコンビニ店員が、家では危険思想の書物を読み漁っていることなど想像だにしないに違いない。時々ボーッとしているのは決して疲れているからではなく、対アメリカ戦略を頭の中で練っているが故のトランス状態に入り込んでいるからなのである。

話を戻そう。もう完全に堕落し切っている店員である僕は、最近ある誘惑と毎晩激しく闘っている。それはよく大阪のおばちゃんとかがやっている「ハイ300万円〜」というヤツを俺も言ってみてえという誘惑である。くだらない。実にくだらない。心底くだらない。

…でも言いたい。

お釣りが300円だったら「お釣り300万円になりま〜す」と言いたい。無表情で言いたい。言ったらどうなるんだ?人間が一皮剥けるのは必至だ。嗚呼たまらん!

ついでだから書いてしまおう。僕は日頃からレジ内でいろんな誘惑と闘っているのだ。例えば買い物の合計金額が777円だったりした時に「おめでとうございます。777円になりま〜す」と言いたい。実はこれは滅多に起こらないようでいて、結構起こりやすい状況なのだ。777円に限らず、333円でも999円でも、もしくは丁度1000円のような切りの良い金額になった時にも言ってやりたくなる。客の方も合計金額がゾロ目だったら一瞬「おっ」という顔になるのだ。二人連れだったりしたら「なあ見て見て」と二人して嬉しそうな顔をするのだ。幸せ気分をもう一押しするくらいいいではないか。お互い失うものはないはずである。でも言えないのだ。(ちなみに666円だった場合には何かとても不吉なことを言いたくなる、ということも一応書き加えておこう。)

まだある。些細なことだが、客に合計金額を伝える時に、頭に「何と」と付け加えたい衝動に駆られるのだ。例えば「何と147円になりま〜す」とか言いたくて仕方がないのである。意味は全くない。ただ言いたい。

まだある。ヒマな時、レジは大抵二人がかりでやっているのだが、相方が客に言う「○○円になりま〜す」に「ほんとで〜す」と合いの手を入れてみたい。理由はないが、強いて言うならテンポの問題である。「○○円になりま〜す」と言った後どうしても何秒か空白の時間が客と店員との間に流れるのだが、そこに「ほんとで〜す」を放り込むことによって事態が好転する気がしてならないのだ。嘘だ。ただ言いたい。

まだある。カタコトの日本語で接客したいという衝動だ。「イラシャイマーセー」とか「アリガートゴザマシター」とか、「インチキ外国人が喋りそうな日本語」を使って接客するのである。


ちなみに最後のは、たまに実践している。



31 検索!検索!検索! 2002/12/11 02:14

ちょっと前に雑誌で読んで知ったのだが、20代〜30代の人の間で初恋の人の名前をインターネットの検索にかけるのが流行っているのだそうだ。日常のエアポケットにはまり込んだ時に陥る、ある種のノスタルジーへの逃避行動であるらしい。まあこういうテレビや雑誌の言う「流行っている」は、往々にして「別に流行っていない」ということが多いので、適当に読み飛ばすのが正しい付き合い方であるにしろ、これはなかなかに面白い記事だった。と言うのも、実は僕もYahoo!に初恋の人に限らず色々な人の名前を入れて検索してみたことがあるからだ。そんなに手当たり次第に検索しまくったわけではないので、そこから何かに行き当たるということは殆どなかった。大体、普通の人の名前を検索エンジンにかけても「該当なし」と出ることが多かったと記憶する。そんなもんだ。

しかしさっき試しに自分の名前を検索してみてちょっと驚いた。何とこのオトサタドットコム内にある、僕が過去書いた文章にぶち当たるのである。これはスゴイ。もし僕のことを誰かがふと思い出し、戯れでも本気でもいいけど僕の本名を検索にかけたとしたら、そいつは実際に「現在の僕」の残した足跡に確実に辿り着いてしまうのだ。もちろんそれはただの痕跡に過ぎないが、考えようによっては「現在の僕」に間違いなく続いている深く大きな痕跡である。

オーイ俺だよ。クロカワだよ。クロだよ。あるいはゆうちゃんだよ。イヤ、むしろクロッキーだよ。みんな見てる〜?

僕は夢想する。僕と過去何らかの形で関わり合った誰かが、ここを読んでいるということはあるのだろうか。小5の終りまで住んでいた大阪の友達とか。割と家は近いくせに卒業以来全く会うことのない中学校の友達とか。だんだん疎遠になってきている高校の友達とか。あまり話したこともないような大学のゼミの人とか。お世話になった先生方とか。近所の人とか。…と色々妄想しているとやはり行き着いた。

親はどうだろうか!

僕は親の名前を検索にかけてみたことなどないし、かけたいと思ったことすらない、むしろかけたくないが、親はどうだろう。自分が生んだ子の名前を検索してみたりするのだろうか。あり得ない話ではない。イヤだなーこんなペラッペラの文章読まれてたら。最近家に帰ったら両親が半笑いで僕を出迎えるのは、実はこれを読んでいるからだったのである!…拷問だ。

それにしてもこのサイバー空間に僕の名前がしっかりと刻み込まれているのは、ある意味では非常に頼もしいことだ。誰かが何かの拍子に僕の名前を検索にかけると、僕のいるこの場所がヒットするのである。ありがとうイトウさん。誰も僕の名前なんて思い出さないしまして検索なんてするはずがない、という可能性には気付きながらも目を瞑ることにしようじゃないか。

ところで僕の本名でヒットするのは実は僕だけではない。和歌山の中学生も僕が調べた限りでは2件ヒットする。出たな同姓同名!まあもしかしたら僕と同じ「ユウキ」ではなく「ヒロオ」とか「ヒロキ」と読むのかも知れないが、ヒットした時点でそれは大した問題ではない。で、彼は何かスゴイのである。2件ヒットするうちのひとつは「全国中学生テニス大会」の大阪・和歌山地区の予選のトーナメント表で、もうひとつは「JAZZマラソンin和歌浦」というマラソン大会の順位表なのである。

スポーツマン。

もう一人はスポーツマンだった!彼はここを読んでいるだろうか。是非読んでいて欲しい。このコラムは即ち、紛れもなく彼のもう一つの生き様であるからだ。

―何を言ってる。

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