ジュズツナギ

第 62 回

「 パンクな思い出 」

とんぺい
(屯風)

私は京都の百万遍ってとこで「屯風」という呑屋を営んでいます。ものごころついてから50年間、ほぼ京都の街ですごしてきました。高校をでてから就職もしないで、アルバイトしながら、役者なんかいいかも〜なんてかるい気持ちで小さな劇団に入って、絵にもかけないヒドイ毎日を送っていました。なにがヒドイかとゆうと……まあお金もゼンゼンないし、芝居はアングラでわけがわかならいし、友達はいないしで、将来に対するキョーレツな不安にさいなまれながら、しかめっ面な毎日を送っていたわけです。

でもね、そのタフだった10代後半〜20代前半にかけて観たえたいのしれない芝居や、舞踏や、ライブの数々が、私の血となり肉となって、人と話したり、ものを考えたり、なにかを判断する時の心のあり様になったと思うんですね。あの時にあんなものを観てしまったから、今、私は呑屋なんぞをやりながら、人とかかわっていってるんだよなあ〜なんて思うわけです。いやはや。

今回は音楽についてなんで、当時観た忘れようとしても忘れられないライブのことをお話したいと思います。私は当時、同志社大学のちかくのキッサ店(ほんやら洞)で働いていました。どこからともなくウワサが流れてきて、今夜同志社の教室であるライブがヤバイらしいとゆうことです。なんでもおネエちゃんがウンコをするらしい。これは観ないわけにはイカンだろうとノコノコとでかけていきました。

いくつかのバンドが終わっていよいよトリらしいのですが、どうも様子がおかしい……。床にはビニールシートがひいてあるし、ミキサーの人はカッパを着ているし、傘をあけしめしている客はいるしで、いったい何がおっぱじまるのだろうと見ていると、でてきましたメンバー。始まりました、メチャメチャなドラムと、キョーレツなギターのノイズ。そしてでっかいポリバケツをひっぱってきた男が、突然そのバケツをかぶったのですが、中身はどうやら魚の頭や牛豚の臓物と血らしくて、教室じゅうにどえらいにおいがたちこめました。

あろうことか、男等はその臓物の海のなかでのたうち廻ってます。なんじゃこりゃ〜とおろろいていると、なんと豚骨が飛んできて、私のおきにのセーターにみごと命中したのです。今思うと、そのときに私の中のなにかがコワレタんですね。そして血まみれの男がウオーッ!」と叫んで襲いかかってきたんです。

いやーおどろいたのなんのって。みんな「ギャーッ」とかいって教室の外に逃げだして、廊下の端まで走ったりしてね。でも男は外にまでおいかけてこなくって。そしたら怖いものみたさですよね。みんなおそるおそるもどっていって教室の中をのぞいてみる。そしたら今度は男がイスをふりまわしながら襲いかかってきたりして、また「ビエ〜ッ」とかいって逃げる。 むっちゃコーフンしてきて、「やられるばっかりで腹が立つし、俺らもやりかえそうぜえ〜」なんてゆう奴らまででてきて、「いや〜これはライブやし〜:ってなだめる奴もいたりして、もうなにがなんだかムチャクッチャ!這うように店に逃げ帰ったのでした。

それが「非常階段」とゆう人たちだったと知ったのはあとのことです。あーおそろしかった。

でもね、そのあとで、私はなんだかすごくラクになんたんですよね。豚骨ぶつけられてラクになるってのもおかしいですけどね。今思うとですね、あの時に自分の中にあった常識ってゆうのかなあ〜、自分をいましめていた枠みたいなものがコワレテしまった気がするんですよね。「人間は、臓物の海でのたうち廻れるほど自由なんだ」ってことですね。つぎの日、熱でましたけどね。いやはや。

京大西部講堂の浅川マキとか、じゃがたらとか町田町蔵とかを観てきて思うのは、まさに血しぶきをあげながらフントウしてくれた先達諸兄のおかげで、確かにいろんなものが壊れたし、たすけられたと思うんですよ。又すぐしめつけてきますけどね。でもできるだけ抗っていかないかんわなあ、観てしまった責任があるもんなあ。と感じているきょうコノゴロで〜す。


ジュズツナギ
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とんぺい
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ミシシッピ
絵描き

ジュズツナギ第63回は、「ミシシッピ」君。絵描き。関西だけで出まわってた雑誌「Lマガジン」で約2年間にわたって、私がレシピ、彼がマンガで連載してました。「Lマガ」は去年いっぱいで休刊してしまいましたけどね。ざんねん。でも彼はブレイクの兆しで、今年おフランスで個展をするらしいです。なまいきですよね。


とんぺい
1959年生まれ。食べていればゴキゲンさん。


屯風の場所

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