雪が降ってきた。そこでオトサタドットコムのオープンである。
ボクは車で東大路から西大路まで抜けるのが好きだ。
普段京都の道路は碁盤目になっていて、東大路と西大路は平行に走ってるから、
まっすぐ走っても西大路にたどりつくわけがない。でも東大路を北へスタートして、
ボーッとまっすぐ走ってるといつのまにか西大路を南へ下っているのだ。
京都四次元ポケット地帯とボクは勝手に呼んでいる。不思議でいい感じ。
碁盤目の効率の中にアイマイさがあるって感じかな。もしくは強引なツジツマあわせっぽいっていうか。
デジタルの世界も、一般的には効率一辺倒みたいなイメージを持たれがちなんだけど、その中にアイマイさが欲しいなとボクは常に思っている。
じゃないと救われないというか。だから、もともとはプログラマーという仕事からデジタルに関わりだしたにもかかわらず、そういう効率とかスピードとか正確さとかとは逆行した方向に興味をおぼえるし共感を覚える。
だから京都でデジタルやってるのかもしれない。
アイマイでいーんだもん。効率悪くたって怒られないんだもーん。
デジタルでオンガクなんて、本来はおかしい。機械に乗せられて踊るなんて、正気で考えたら寂しくなるじゃん。
でも僕らは踊り出す。それはやっぱりデジタルな中にもハートがあるからだとボクは思う。なんにしろ、機械の向こう側では人が手を使って創ってるんだからね。
テクノを聴いてて想うのは、その向こう側にいる作り手のハートが、いわゆるクラシック音楽と似てるってことだ。なんか、ロックじゃない。それは、「保守的」ってことじゃなくて、「冒険心」において。ロックは意外と冒険しない、とボクは思う。
テクノは冒険の連続だ。実験の連続だ。
昔の作曲家、クラシック音楽と言われるジャンルの音楽を創っていた人達が、現代に生まれたら喜んでデジタル音楽やってたと思うんだけど。 1200年前、京都は前衛都市だった。もちろん都市の作りもそうだし、文化流行の発信地だった。要するに、イチバンオシャレだったってこと。そして、精神的開拓も随分おこなわれたに違いないと思う。
今、京都といえば、保守的な街だと思われがちだけど、そーじゃない。1200年前の前衛精神は廃れてない。前衛精神を忘れて、保守的になっちゃったのは一部のおぢさんたちだけだ。そういうのはほっとけばいい。僕たちは関係ないからね。
前衛を許すのはアイマイな街にしかできない芸当だ。
だから京都にはデジタルがよく似合う、と思う。
伝統的デジタル都市、京都に身を委ねて存分に楽しもうじゃないの。 もちろん、僕たちのフィールドはインターネットまで拡がっている。
そして今、ボクは怪しいことを考えている。
「インターネット京都化計画」
インターネットを効率一辺倒のカタブツデジタル族から奪還するんだ。
京都流デジタルでインターネットを埋め尽くそう。
(つづく)
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